愛してるの言葉に価値なんてあるの?
035:穢れた手であなたを抱きしめてもいいですか
藤堂は池のない庭へ降り立つと茫洋と喬木を見上げた。たしなみとして華道を習ったものの実にはならなかった。華道などとは縁遠い軍属へその籍を置く。来るもの拒まずの気性は庭にも反映されていて、去年は見なかったように思う花など咲いていたり蔦が伸びていたりする。往来へはみ出る分は迷惑だからと刈ってしまうが、庭の内側へ伸びるなら好きにすればよいと放っておくのを草木の方も心得るらしく、最近はもっぱら庭の内側へ蔓の先端を彷徨わせている。なんとか見られる庭へ拵えるが長期的に家を空けることもあり、一度などはお化け屋敷へ帰宅してしまったと思うほど草木が生い茂って密に絡み合っていた。最近は何とかもっている。
庭先に出ても風の一つも吹かない。履き物をつっかけ流しの男小袖を纏う藤堂の指先は何とはなしに締められた帯へ引っかかる。部下の朝比奈が藤堂の私邸を訪いたいと言いだしたのだ。周りがしきりに藤堂に断われと言ったが断る理由もないので許可した。藤堂の直轄と言っていい位置にいる四聖剣の、唯一の女傑である千葉などは不穏であったならば遠慮なく切り捨ててくださいと藤堂の愛刀を指し示した。その愛刀は今は所定の位置に収められている。呼び鈴が鳴る音がして潜り戸をあける。庇のある構えの門の前で朝比奈が袋を携えて立っていた。藤堂は言葉をかけずに体をひく。朝比奈も怒りもしないでお邪魔しますと潜り戸を抜けた。大門は閂をかけたままだ。車の出入りの際などには開けていたが手放して身軽になった身では無用の長物かもしれない。
「藤堂さん、庭の手入れしました?」
「よく判ったな。確かに、したが」
朝比奈が来る前にせめて見苦しいものは整えておくべきだと必死に作業をした。汗だくになったので風呂を沸かして入り、今の恰好にいたっている。
「草の匂いがしたから。それに藤堂さんのウチの庭って綺麗ですよねー、壁要らず。あの茂み、猫も通れないんじゃないですか?」
「あれは絡みすぎて手の施しようがなくてな…眼隠しになるかと放置しているだけだ」
朝比奈の世辞の様な追従のような率直な感想に藤堂は事実だけを短く告げる。客間へ朝比奈を上げてから膝を崩しても構わない旨を伝えて台所へ引っ込んだ。二人で食事をとる約束であったから惣菜をつくり置いてある。いくつか温め直せばそれなりの揃えになるだろう。茫洋と考え事をしていた藤堂の背中から声がかかる。
「これもあっためてもらえます? オレが作ったからしょっぱいかもしれないけど」
朝比奈が持参したのは夕飯のための惣菜であるらしかった。二人で台所に立って黙々と作業している。次第に朝比奈が調理から手を引き、居間へ運ぶ役割に変わった。全ての惣菜が並ぶと壮観だ。男二人の食卓とは思えない手作り感がある。
「藤堂さん、なんで家事まで覚えたんですか?」
「身の回りのことやもので、自分で賄えることは何でも出来るようになれとしつけられてきたせいかもしれん」
藤堂の母親は喧嘩をすれば勝って帰ってくる悪童に衣服の仕立てや華道、料理まで仕込んでいた。朝比奈がはぁあ、と感心したのか抜けたのか微妙なため息をついた。だがそれ以上は続かず、藤堂はいただきますと箸をとり、朝比奈もそれに倣った。
惣菜はちょうどよくはけ、空の器の洗浄を終えて食後の茶を淹れていた藤堂が戻ってくると朝比奈は縁側にぼうっと立っていた。
「どうかしたか?」
泊まっていくつもりなら風呂を立てるがどうするか、と訊く前に朝比奈がちらりと半身だけ藤堂の方を向いた。線も細くて華奢な朝比奈は童顔気味で大きな双眸をし、丸い眼鏡でさらに幼く見える。だが性質までは子供ではないようで藤堂を何度も情けなくなるような目にあわせている。それはたいてい閨での話で、朝比奈は藤堂を慕うことを隠そうとしない。
「実は、言いたいことが二つあってオレ、今日ここに来たんです」
前置きのある事柄に良い報せがあった例がないから藤堂は湯呑へ茶を注ぎながら身がまえた。大国の半ば属国と化したこの国を救う団体から離脱したいのか。主導権は奪われつつあったから、解放戦線という藤堂たちの錦の御旗はテロリストというレッテルに零落しつつある。それでもまだなんとか日本が保たれているのは徹底抗戦を唱える枢木ゲンブという男の存在あってこそだ。政治戦略の辣腕家で切れも鋭い。敏感であるし迅速で正確。彼の存在は日本を守り抜きたい者達の最後の砦だった。
「鏡志朗さん、ゲンブと寝てるね」
藤堂が急須を持つ手はふるえなかった。湯呑を朝比奈の方へすっと滑るように移動させる。その際の腕の動きは滑らかでわずかに曲がった肘の美しさは袖や袂に隠されてしまう。音もなく湯呑を倒しもしない。かといって卓子を傷つけるでもなく滑らかに滑る。
「怒らないの。動揺もしてないね」
藤堂と枢木ゲンブの関係は軍属幹部と首相の域を完全に逸脱していた。初めのころはそうであったが、いつしか夜の呼び出しに応じた際、無理矢理に体を開かれた。その際には薬物まで使用され、抵抗すればどうなるか判るだろうと陳腐な台詞を吐かれた。その後も不定期的に藤堂は枢木邸へよばれ雌猫のように盛って抱かれてを繰り返すだけだった。ゲンブはあくまでも相手が欲しがることを望んだから、藤堂はそれに応えるように淫奔に振舞った。それで藤堂以外への不要で煩わしかった圧力が消え、軍属はずいぶんと動きやすくなったものだった。だがゲンブの閨はただ睦みあうだけには終わらない。打たれ殴られ蹴られて切られて藤堂の体には歴戦のほかに歪んだ欲望の痕跡まで刻まれた。ゲンブの歪みに気付いた時にはすでに遅かった。藤堂は精神的にも追い詰められ、何度も吐瀉し、喘いで泣いてすがって赦しを乞うた。それこそがゲンブの好むものだとも知らなかった。
「事実だ。訊きたいことというのは、それだけか」
付け足す気はない。藤堂がゲンブに抱かれている。程度は酸鼻を極めるがそんなことは埒外であり、むやみやたらに言いふらす類ではない。だから藤堂は朝比奈の言う、ゲンブと寝ている、という箇所だけ肯定した。
「うーん、あともう一つ。鏡志朗さん、オレはさ、あなたを」
くるりと朝比奈が藤堂の方を見た。月光が逆光になり朝比奈の顔は闇で窺えない。
「あなたを愛しているよ」
今度こそ藤堂の手が止まった。急須をおいてまともに朝比奈と向かい合う。逆光で薄黒い朝比奈の表情は読めない。眼鏡の丸さだけがぬばたまの中で煌めいていた。
「大好き。愛してる」
藤堂のその後の言葉をきっと知っている。嫌だ言わせたくない聞きたくないもう嫌だ嫌なんだ逃げたいんだ。藤堂の体が仰け反るように膝を立てる。闘争本能が取った防御姿勢だった。
「オレも、あなたを抱きたい」
藤堂の脚が畳を強く蹴った。板張りの廊下を疾走して便所へ駆け込むと藤堂は胃の中のものを全部吐いた。後から後から湧いてくる吐瀉物を見てむせかえって涙目になりながら藤堂は何度も何度も吐瀉した。落ち付いた頃合いになってはー、はー、と長く浅い呼吸をする。肩が忙しなく上下する。ちょうど曲がり口で朝比奈が立っている。今度は月光がさして朝比奈の顔を蒼白く照らした。眼鏡は白く濁り、髪と揃いの暗緑色の双眸を隠す。月光が角度によって白色となり眼鏡の奥を見えなくさせる。朝比奈は完全に藤堂を憐れんでいた。告白して嘔吐されたことには頓着せず、ただ藤堂の境遇に対して明らかに憐憫を抱いている様が感じ取れた。朝比奈の告白を、人を無下に扱えない藤堂が無視できるわけはない。だがゲンブとの関係は藤堂の気持ち一つで片のつくものではない。藤堂がゲンブと朝比奈の板挟みになることを知っての上での憐憫であり、その笑んだ口元には愉悦さえ浮かんでいる。
「鏡志朗さん、オレ、あなたのためなら。あなたを抱くためならどんな下種にだってなれる。そう言う、男なんだよ」
月光に透かすように手をかざした朝比奈がクックッと笑った。皮膚の白い朝比奈は月光を浴びてさらに蒼白く発光しているかのようだ。かざした手の血管さえも透けて見えるのではないかと錯覚させる。
「あぁほら、そんなきったないことばっかり考えているから。オレ、穢れてるね。汚い手。ぐちゃぐちゃにしてやりたい」
あははははあははは。朝比奈がケタケタと笑いながらその白い手をひらめかせて踊るように藤堂の元へ来る。吐瀉物の饐えた臭いが二人の間でふわりと浮かぶ。
「穢れているのはあなただけじゃない」
硝子の奥から射抜く鋭い視線が藤堂を見据えた。座り込んでいる藤堂の元へ目線の高さをあわせるように朝比奈もしゃがんだ。丸い眼鏡の容がこの場に似合わずユーモラスだ。深刻さを欠く。真剣な話をしているのに笑い話になってしまうようなそんな転換力を朝比奈は有している。藤堂は口の中が酸っぱくなるのを感じた。すぐにせり上がってきた吐瀉物は飛びだすほどの勢いもなく藤堂の口腔に溜まった。藤堂は顔を背けてそれを吐きだす。朝比奈は一連の動作を見ても動揺はおろか嫌悪さえしない。
朝比奈の目線を追って藤堂は慌てて裾を直した。割れた男小袖の裾から大腿部が覗いていた。駆けてきて便器に向かい合った所為か、裾の乱れには気づかなかった。
「ねぇほら、鏡志朗さん、だからね」
朝比奈の声はどこか絶対的なゲンブにも似て。
「穢れているなんて理由にならないよ。オレだって穢れた下種なんだ。穢れてるのはお互い様さ。だからオレとも、寝てよ」
ゲンブはこの変化を喜ぶだろう。藤堂の煩悶が増え、密かに毀れていくのを愉しむような男なのだ。藤堂が朝比奈とゲンブの板挟みに苦悶するのは間違いなく、それを朝比奈と、おそらくはゲンブさえもが望んでいる。
「大好きだよ、鏡志朗さん」
吐瀉した口を濯いでもいないのに朝比奈が吸いついた。歯列をなぞるように食むように深い口付けを交わす。
「オレはあなたが好きだからあなたの全部が見たいんだ。綺麗なのも強いのも弱いのも見た。あとは汚い所だけだよ」
ゲンブとの交わりを藤堂が穢れにしているのを踏まえた発言だ。藤堂の四肢から力が抜ける。逆らいようもなくまた逆らう気も起きなかった。それはどこかで朝比奈という少年の良さを信じているからかもしれないし、全てに絶望してしまったからかもしれなかった。好きや嫌いにこだわるのは幼さなのだろうか。政治家として戦略家としてのゲンブを藤堂は尊敬している。彼の辣腕がなければ今日まで日本は持ちこたえず大国に呑まれてしまっていただろう。だがそれと恋愛感情や体の交渉は別物だ。生殖とは独立したシステムなのだ。
「もっとキスしていい?」
朝比奈の手が藤堂の頤と頬を捕らえ噛みつくように口付けた。何度も何度も食むように舌を絡ませてくる。藤堂の体が傾いで横たえられる。朝比奈は藤堂の脚の間に位置を取り、油断なく機会を窺っている。朝比奈の手は遠慮さえせず下腹部へもぐりこんでくる。
「あぁぁああ――……!」
声を上げて仰け反る藤堂の背に手を回して朝比奈が抱擁した。
「愛してるよ、鏡志朗」
希望かもしれなかった。こんな体でも好きだと言ってくれる。
絶望かもしれなかった。板挟みになると知っていて言葉を紡いでいる。
汚泥に塗れた路地裏が奇妙に懐かしく感じられた。
藤堂は促されるままに脚を曲げたり伸ばしたり開いたりした。
《了》